風呂の日

2月6日は風呂の日らしい。知らなかった。
僕が今住んでる部屋には風呂がない。風呂付きのアパートを借りられないほど貧乏である、というわけではなくて(貧乏だが)必要がないからわざわざそういう物件を探した。職場がスイミングスクールで1日に7,8回はシャワーを浴びているからその辺の人よりは清潔だと思う。
だけど、たまにはゆったりと湯船に浸かりたいから週に2,3回は近所の銭湯に通っている。

元々僕は特に銭湯好き、というわけではなかった。
というより、ものすごいド田舎に育ったので周りに銭湯などなかったのだ。十数年前に東京、荒川区に引っ越して来て「こんなに銭湯があるの!?」とかなり驚いた(今は多分当時の3分の1以下に減ってはきているけど、それでもたくさんある)。黒くすすけた煙突が高く伸びてるから土地勘のない当時の僕でも簡単に見つけられた。建物に入ると真ん中に番台があって、男湯女湯に分かれるという昔ながらの銭湯がそこかしこにあった。
そこには江戸っ子のおじいちゃんたちが日常的に通っていて漫画や映画で見た東京の下町、って感じがしてとても物珍しかったからか、当時でも時々は通っていたように思う。

いつから銭湯が僕にとって「なくてはならないもの」になったのか。
それは件の職場、スイミングスクールが大きく関係している。
とにかく体が冷えるのだ。いくら温水プールとは言っても1日に3〜4時間、多いときは5時間もプールに入っていたら寒い(しかも僕は昔から冷え性で寒いのが超ニガテだ)。絶対健康に良くない。
だから同じくらいの時間は無理にしても、結構な長風呂をして帳尻を合わせる必要がある。

ある日、職場から帰る途中にたまたま見つけた銭湯へ行ってみたら冷え切った体が芯から温められて生き返った。仕事帰りの疲れた頭もリラックスできて広い湯船に浸かりながら長いことボーッとしていた。おまけにサウナまである。至福の時間だった。銭湯を出た後もずっとポカポカしていて、家風呂に比べたら疲れの取れ具合が全然違った。
以来、銭湯は好きとかそういうレベルではなくなって、生活必需品、文字通り生きるために通うようになった。

通うようになってわかったのは銭湯が近所の人たちのコミュニケーションの場としても機能していることだった。
顔見知りになった方や、プールに来ているおじいちゃん、子供たちや親御さんが、お風呂場で会うとみんなリラックスしていて和やかに話をしている。そんなやりとりがとても新鮮で、僕のような単身者とってこういう地域のコミュニティってなかなか得難いものだよなぁ、なくなって欲しくないなぁ、といつも思うのだ。