はじめましての皆さんへ

福井県出身、さそり座。

2015年より主に都内近郊ライブハウスや公園や道端で活動を始める。

日々の生活のふとした瞬間に感じたいつもとはちょっと違う気持ち、なんとも言葉にできない感情を、歌と音楽に託してポップにヘンテコに、時に熱く歌う。

くすぶった魂を燃やすため、男たちが繰り広げるロックンロールの大冒険。

 

ギター弾き語りソロ「山川タカシ」
ロックンロールバンド玉boy」

 

 

WEBサイト

yah.localinfo.jp

 

 

「東京露天風呂」 あらかわ遊園地 アリスの広場(2017.0321)

 

「イケメンになりたい」荻窪クラブドクター(2017.1219 )

 

 

バンドメンバー(随時募集中)

 

ドラマーを募集しています。

 

 

出演依頼などはこちらから

メール  yah8823@gmail.com

Twitter  https://twitter.com/abura

 

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2016年4月 王子飛鳥山にて 友人の子供と



 

2021 「今年の抱負」とは

そういえば、「今年の抱負」みたいなものを考えるのをすっかり忘れていた。
今年の抱負を立ててどうするのだろう、とも思うし、多分三日も経てば忘れてしまうだろうし、2020年の抱負も全く覚えちゃいないけど(そもそもあったかどうかもあやしい)、それでも新しい年を暮らしていくための指針を考えることは決してムダにはならないはずだ。仮にムダであっても構わないしな。

昨年、何を考えていたっけ?
神社に詣った時にお祈りすることはここ数年はずっと変わっていない。
「今年もよろしく頼むよ」ってことくらいだ。「まかせたよ」と。
神仏を信じるかどうかは別にして、人知を超えた何か大きなものに自身の運命を委ねることは多分、精神衛生上有効なのだろう。だいぶお気楽になると思う。
そして、それは「努力をしない」ということとは全く別の話である。

スーフィーイスラーム神秘主義)の格言にこういうものがある。

「神を信頼しろ。だが、ラクダはつないでおけ」

自分でやれることはいちおう全部やるのである。
その上で起こった結果に対しては一喜一憂しないで、思い煩うこともしない。結果がどうであろうと責任は神にあるのだから、それはもうまかせきって放っておけばいい話で、まかせたのに責任を果たさないのは神の怠慢だ。
ここ数年はそんなふうに神仏に祈っている。

では「やれること」の範囲で「今年の抱負」というものを決めていけば良いのだろう。

「伝えるための手間や工夫を惜しまない」

これにしよう。今思いついた。
誠意なり、謝意なり、いくら自分の気持ちが多大であっても相手に伝わらなければ何の意味もない。
その言葉や態度がどれほど形式的であれ、上っ面だけであっても、それによって相手に気持ちが伝わるのであればそっちの方が良いだろう。伝えるタイミングや相手のコンディションなんかも重要だ。
「これは自分の表現じゃない」だの「自分はこうじゃない」だのは、その相手にとってはどうでも良いことだし、それは単なる思い込みによるプライドでしかない。

心のブログ

少し前にオバタケンさんとオンラインで飲んでた時に「ブログ全然書いてないっすね」って言われて少し驚いてしまった。僕は全然そんなこと思ってなくってたくさん書いてるつもりだったのだ。だけど確かによく見たら最後のブログは8月頭ごろ、今はもう9月も終わるころだから、2ヶ月くらい書いてないことになる。なぜかめっちゃブログを書いてるつもりだった。不思議な思い込みである。

なぜブログを書いてるつもりになっていたのか。それは毎日のように考え事をしていて思っていること、感じていることを言語化していたからだろう。いわば「心のブログ」をやっていたのだ。
じゃあなんでそれをWebにアップしないのかといったら、Webに上げるにはそれなりに読めるものでなくてはいけないし、公にできないことだって当然あるし、何しろ頭で考えてるだけだから本当は何もしていないに等しいし、なんならそのまま忘れるし、アップできるわけがないのである。
考えてることを整理して、文章にして、読めるものにして、まあちょっとは面白いものを、ということになると僕は結構頑張らないといけない。

いや、頑張る、という発想がもうダメなのだ。習慣のように毎日他人に見せることが前提の文章を書いていれば、そんなに頑張らなくてもできるようになるのだろう。クオリティは別にしても、そういう習慣は持っていた方が良いんだろうな、と思う。
自分で考えて、まあ時々はノートに書いたりもするけど、それは他人に見せることが前提の文章じゃない。見聞きした事象やそれに伴う自分の感情を言語化したり考えを整理するためにやってることだ。つくづく思うのは、ここが非常に重要で、何事も「他人に見せる」ことで初めて表現になり得るんじゃないか。(と今思いついた)


最近よく思っていることがあって、自己表現には2段階あるんだろうな、ということだ。

初めは自分のためにやる。2段階目に他者がいてそこで改めて表現方法を考える。例えば文章だったら、他人が読んでどうやったら伝わりやすいか、わかりやすいか、誰かを傷つけていないか、面白いか、そもそも伝えるほどのものを書いているのか、など。
音楽だとまたちょっと違って自分の気持ちのいいものを追求してはいるんだけど、そこに完全に他者がいないわけでは決してなくて、聴いてくれる人のことは意識して作っていると思う。ここはまだちょっと上手くは言えない。

 

そんなわけで少し他者を意識した文章を書くためにnoteっていうやつを始めてみようと思っている。

これがそのアカウントだ。文章だけでなく音源もアップできて、しかも売ることができる、というサービスだ。

 

 

信じられないことにもう既に記事を書いている。2014年のことでnoteが出来たばかりの頃に試しになんか書いてみようと思ってくるりのライブを観にいった感想を書いていた。しかも途中で書くのをやめている(戒めのためにこのまま残しておく)。

6年ぶりに読んでみて、なんでも全部を書こうとしたらキリがない、ということがよくわかる。書くことは取捨選択をしなければならない。

 

そう言えば「書くことは世界を狭くする行為である」って最近読んだ本に書いてあったな。

ホントにそのとおりだな、と思う。

 

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歌をつくる

休業期間中はいつもよりも自由時間が増えたので少しづつ曲作りもやっていた。
ところがいざ「曲でも作るか」と思い立った時、いつも戸惑ってしまうのだ。

「あれ?俺は一体どうやって曲を作ってたんだっけ?」と。

本格的に音楽活動を始めた5年前から考えたら「完全な満足」と言えないまでも、「まあまあいいんじゃないか」と思えるくらいの曲は少しづつ作れるようになってきた。
それでも人から「曲ってどういう風に作るんですか?」と訊かれたりするたびに、どうも簡単には答えられなくて言葉に詰まることが多く、「俺が訊きたいよ!」なんて答えてしまう。
今回は曲作りの過程を改めて考えてみよう。

まず、一口に「曲作り」と言っても楽曲には種々様々、たくさんのジャンルがある。オーケストラの曲を作るのか、民謡曲を作るのか、ピアノのインストゥルメンタルの曲を作るのか、どのジャンルの曲を作るかによって作り方は全く異なってくるだろう。
僕が作るのはいわゆるポピュラー音楽の歌である。その中でもとりわけ簡単で単純なギターの弾き語り曲が多い。もちろんバンドアレンジを前提にしたものもあるんだけど、基本的にはアコースティックギター1本でコードをジャカジャカ弾いて歌うだけのシンプルな音楽だ。なので、もしあなたが米津玄師や中田ヤスタカのような打ち込み曲を作りたいのであれば全く参考にならないと思うのでその点は了承していただきたい。

そして、そんな簡単な曲でも、千人いるなら千通りの作り方があるのが創作の面白いところだと思う。
僕の場合は「よし、曲でも作るか」と思って作れたことは一度もない(もしかしたら一度くらいはあったかもしれない)。なんの取っ掛かりもないところから曲を作るのは非常に困難で、なにがしかのアイデアが必要になる。あえていうならば、そのアイデアを探すところから曲作りが始まっていると言ってもいい。

そして、僕が主として作りたいのは曲というよりも歌である。
じゃあ歌ってなんだ?曲とどう違うの?と考えると、アカペラの歌を想像してもらうとわかりやすいと思う。メロディがあり、リズムがあり、そしてここが重要なんだけど、言葉がある。これ自体、まあ曲であるとも言え、つまり歌だけの曲もある、ということだ。そして歌とは「メロディ(リズムを含む)と言葉が一体となったフレーズである」と言えるだろう。逆に歌にないものは伴奏、中でもとりわけ重要な要素は和音だと思う。
で、僕の場合、まず歌を作ってそれに合わせて伴奏や和音を考える。ただ、大抵は歌を作ってる時点でイメージがあるので大体こんな感じの和音、伴奏、とある程度決まっていることが多い。
逆に伴奏、和音に合わせて歌を作ったことはない。ない、というかできない。でも、そういう作り方をしている方も中にはいらっしゃると思う。

随分と前置きが長くなってきたが、要するに僕がまず作るのは鼻歌だ。思い付いた言葉をメロディやリズムをつけてふんふんと歌ってみて、しっくりくるところを探す、というのが主な作業になる。この時点で音の鳴る楽器のようなものは一切必要ない。大抵は寝てる時、自転車に乗っている時、散歩してる時、などに思いついてやっている。

そう、「思いつく」というのが一番しっくりくる。これが最初に述べた「アイデア」となる。
ここで注意して欲しいのだけど、これってよく「降りてくる」という言われ方をするけど、厳密には何もないところに「降りて」はこない。ぼんやりと、なんとなく考え事のようなことをしている時に歌えそうな言葉を「思いつく」というのが多分、僕が作ってきた歌で一番多いパターンだと思う。考えのないところにアイデアはこない。何もしてないところに自動的に歌がやってくる、なんて都合の良いことなんてないのである。だから歌を「思いつく」ためには脳みそを使って色々ごちゃごちゃ考える必要がある。

あと、知ってる方もいると思うけど、僕はノートに歌詞を書かない。というか「書けない」というのが事実に近い。書いても書いても歌を作れなかったからいつしか書くのをやめてしまった。
頭の中で、あるいは実際に歌いながら作っていって、歌ったものがしっくりきたらそれで良し、よくなかったら歌いながらメロディ、リズム、言葉の細かいところを直していく。
それじゃあ忘れてしまうじゃないか、と思うかもしれないけど、そのフレーズを忘れてしまうくらいなら印象に残らない、良いフレーズじゃなかった、ということだし、あと大抵は「これはいいぞ」という強い思い込みがあるから2,3日は忘れない。だけどそのまま4日も5日も放置しているとさすがに忘れてしまうから、2,3日以内に何度か歌って展開を考えたり修正したりする作業を行い、少しづついわゆる長期記憶というやつに移していくともう忘れない。「鉄は熱いうちに打て!」の精神である。

長々と書いてて思ったけど、これってまだまだ、ほんのさわりの部分ですね。フレーズを思いついて歌えるようにしていく、というフェーズで終わっています。
この先は有料記事で!

教える

7月になりました。びっくりしますね。梅雨が長くていまいち夏って感じがしないけど、最近の夏は狂ったような猛暑で死にそうになるからそれだったら雨の方がまだマシかなぁ、なんて思っています。

最近、歳のせいなのか、人に何かを教えることが増えてきた。
と言っても仕事上のことではなくて(仕事は相変わらず休業中)大体が個人的な友人や知り合いに対してだ。相手から「教えて欲しい」と言われることもあれば、こっちから「知ってることを教えてあげたい」と思うこともある。あと、そんなに具体的なことじゃなくても単なる話相手や相談相手になることもある。
多分、これまで他人に興味のなかった僕が少しでも積極的に他人に関わろうとする、ここ数年の方針から生まれた出来事なのだろう。喜ばしいことだ。
それで、「教える」ということについて考えたことを記す。

一番思ったことは、「教える」ということは学ぶことでもある、ということ。
順を追って説明すると、まず、その物事についてよくわかっていないと教えられない。当たり前だ。
当たり前なんだけど、このこと自体が案外自覚できてない。自分ではわかってるつもりのことを機嫌よく話しているうちに、細かい部分部分に話が及ぶにつれて「あれ?そもそもこれってどういう意味だっけ?」と、ふと我に還り「あ、俺全然わかってないな」と思うことがよくある。だけど相手にとってはそもそも知らない話なので、特にツッコまれることもなく、全体としては滞りなく話が着地する。
(こう書いたけど、実際の僕はわかってないことに気づくと「あ、俺これわかんない」と正直に告白することが多い。別にお金を戴いて先生をしているわけじゃないから、なんなら相手に「これってどういうことかなぁ」と尋ねたりもする)
とにかく、教えてるうちに自分の知識の不完全さに気づく、という利点(?)がある。

次に、似たような話ではあるけど、自分では気づかない視点、知らない視点から質問が飛んでくることもしばしばある。それに対して答えようとすると、自分が普段全然考えてないことなので、イチから考えて話すことになって、すると普段考えていない、想像の外の答えが出てきたりして、こういうことはすごく新鮮である。

このように、「教える」ということは一方的に与える行為だと思われがちだけど、案外に相手から戴くものが多くある。というかそっちの方が多い。

僕はこれまで上から目線で人にものを教える、ということがなんだか嫌だったこともあり、あとめんどくさいから、あまりしないようにしてきたんだけど、ああ、なんてことだ。たくさんのものを得る機会を自ら失っていたのか。人生の半ばで気づけて良かった。

これからは老師になったようなフリをして、どんどん人にものを教えていこうと思っています。弟子求ム。

闇のアルバム 6/14(日)高円寺4th floor

5ヶ月ぶり、かなり久しぶりにライブをしました。

「次のライブはバンドだ」って思ってたんだけど飛んでしまった。でもまあ弾き語りのライブも大事。

 

4thでの初ライブの出来は、というと「無観客ライブ」ということを抜きにしてもかなりなまっていた。心も身体もなまっていた。結構練習してるつもりだったんだけど。やっぱりライブは別なものっていうことかな。終わったあとの、エネルギーを使い果たした感覚が凄まじかった。ビール飲みながら2番手の仁さんのライブを見てたんだけど半分くらいの時間グッタリしててあまり記憶がない。

それだけ出し尽くした、ということでもなくって、ただ単に「ライブをする身体」になっていなかった、ということだ(アスリートみたいだね)。

 

それと前回カバー動画を撮ったブログで「あまり声を張らないで歌う」なんてこと言ってたけど、前言撤回します。

基本僕の曲は元からワーワー歌って作ってる曲が多いから、ちゃんとワーワー歌わないとダメですね。声を張らないでしっとりといい感じに歌う、なんてやってもパワーが無くなるだけだった。

次のライブはバンドで出来たらいいな。

カバー動画

6月になりました。びっくりしますね。かれこれもう三ヶ月間ニートのような生活が続いています。ネオニートです。

練習や曲作りの時間も充分に取れるので合間にカバー動画などを撮ってツイッターに上げたりしていました。
これがやってみると新しい発見が沢山あったので記録しておきます。

 

 

 

 

まず、カバー曲を自分の声でいい感じに響かせるには曲によって歌い方を考えないとならない、ということ。
こう書いてみるとごく当たり前のことのように思えるが、今まで全然考えてなかった。何でもかんでもワーッと元気に歌ってた。
具体的には、少し声を抑えめに歌うようにしたらしっくりくる曲が多かった。
考えてみたら当たり前で原曲はワーッと歌っていない。詞のニュアンスが伝わるように色々と変化をつけて歌っている。
メタルやハードコアパンクでもない限り、ワーワーギャーギャー歌ってない曲の方が大半なのだ。
これは自分のオリジナル曲にも言えることで、曲によって歌い方を考えないといけない。本当に当たり前のことだから書くのも恥ずかしいんだけど、今まであんまり考えずに適当にフィーリングで歌ってた。

これは動画を撮って聴いてみると一目瞭然(耳だけど)。ワーッとがなって歌ってるのを聴いてるとうんざりしてくる。今まで本当に申し訳ありませんでした。
もちろん声量は大事なので声量を保ちつつ声を張りすぎない歌い方を目下練習中だ。抑え目に歌うとちょっと油断すると聴き取れないくらい小さくなってしまうこともある。

このことはアコギの弾き語りに特に顕著で、音楽的にシンプルな分、歌の表現力がモロに出てしまう。
バンドならサウンドによる表現の部分が大きいし、他の楽器に埋もれてしまわないよう出来るだけ大きな声で歌って迫力を出すことも必要になる。

バンドと弾き語りでは歌い方を変えなきゃならない。薄々気づいていたんだけど、よりはっきりと理解できた。

 

あと、動画を自分で見返すとアラがよく分かる。リズムのズレ、ピッチのズレ、ニュアンスなど。「あ、ここおかしいな」と思って撮り直したりもする。こんな動画でも多少は練習している(性格がいい加減なのでOKのハードルは低い)。

 

そして自分が絶対作らない(作れない)ような曲を歌ってみることは、自分の作る曲、歌の表現の可能性を広げる。

これはマジで歌の練習になる。
カバー動画を撮影してみてよかった。

生活と実験

前回のブログからひと月以上経ってしまった。いかんいかん。
どうにもハンを押したような生活が続くのでメリハリがつかない(ほとんど働いていない)。
少ないけど休業補償が出ているので、これはある種ベーシックインカムみたいなもので大変にありがたい。
すると人間どうなるかというと、無限にやりたいことができる。

理論上は。

だけど、金がなく、設備もないから、やりたいこと何でもできるかというとそうもいかない。どっちかというと非常に制限があって、できないことが大半である。
だけど、暇だけはある。
すると人間どうなるかというと、色々と工夫をする。

具体的には布団をかぶってレコーディングするために布団のかぶり方と音の漏れ具合を研究してみたり、冬物のセーターとかを手洗いしてバスタオルやスイムタオルに挟んで干してみたり、シャツのえり、そでの汚れを落とすために食器用洗剤と重曹を混ぜて歯ブラシでシャコシャコ洗ってみたり等、主に生活と創作に関するものだ。

もちろんこういうことが常に上手くいくはずもないので毎回失敗を繰り返すけれど、毎日何かの実験をしているみたいで、まあ楽しい。
その結果わかることは、ビフォアコロナの頃って生活の大半をおろそかにしていたんだなぁ、ということだ。社会人の人はみんな薄々感じていることだと思うけど、働いているとちゃんとした生活などできない。それともこんな甘ったれたこと思ってるのは僕だけだろうか。

あと、暇だとやっぱり曲が作りやすいね。
何曲かできたから簡易に録音してみました。

 

 

 


 

真ん中の写真にあるように僕の髪の毛は伸び続けています。

あとUPした曲は録音し直すたびに差し替えていく予定です。音質、演奏、編曲の実験です。