心のブログ

少し前にオバタケンさんとオンラインで飲んでた時に「ブログ全然書いてないっすね」って言われて少し驚いてしまった。僕は全然そんなこと思ってなくってたくさん書いてるつもりだったのだ。だけど確かによく見たら最後のブログは8月頭ごろ、今はもう9月も終わるころだから、2ヶ月くらい書いてないことになる。なぜかめっちゃブログを書いてるつもりだった。不思議な思い込みである。

なぜブログを書いてるつもりになっていたのか。それは毎日のように考え事をしていて思っていること、感じていることを言語化していたからだろう。いわば「心のブログ」をやっていたのだ。
じゃあなんでそれをWebにアップしないのかといったら、Webに上げるにはそれなりに読めるものでなくてはいけないし、公にできないことだって当然あるし、何しろ頭で考えてるだけだから本当は何もしていないに等しいし、なんならそのまま忘れるし、アップできるわけがないのである。
考えてることを整理して、文章にして、読めるものにして、まあちょっとは面白いものを、ということになると僕は結構頑張らないといけない。

いや、頑張る、という発想がもうダメなのだ。習慣のように毎日他人に見せることが前提の文章を書いていれば、そんなに頑張らなくてもできるようになるのだろう。クオリティは別にしても、そういう習慣は持っていた方が良いんだろうな、と思う。
自分で考えて、まあ時々はノートに書いたりもするけど、それは他人に見せることが前提の文章じゃない。見聞きした事象やそれに伴う自分の感情を言語化したり考えを整理するためにやってることだ。つくづく思うのは、ここが非常に重要で、何事も「他人に見せる」ことで初めて表現になり得るんじゃないか。(と今思いついた)


最近よく思っていることがあって、自己表現には2段階あるんだろうな、ということだ。

初めは自分のためにやる。2段階目に他者がいてそこで改めて表現方法を考える。例えば文章だったら、他人が読んでどうやったら伝わりやすいか、わかりやすいか、誰かを傷つけていないか、面白いか、そもそも伝えるほどのものを書いているのか、など。
音楽だとまたちょっと違って自分の気持ちのいいものを追求してはいるんだけど、そこに完全に他者がいないわけでは決してなくて、聴いてくれる人のことは意識して作っていると思う。ここはまだちょっと上手くは言えない。

 

そんなわけで少し他者を意識した文章を書くためにnoteっていうやつを始めてみようと思っている。

これがそのアカウントだ。文章だけでなく音源もアップできて、しかも売ることができる、というサービスだ。

 

 

信じられないことにもう既に記事を書いている。2014年のことでnoteが出来たばかりの頃に試しになんか書いてみようと思ってくるりのライブを観にいった感想を書いていた。しかも途中で書くのをやめている(戒めのためにこのまま残しておく)。

6年ぶりに読んでみて、なんでも全部を書こうとしたらキリがない、ということがよくわかる。書くことは取捨選択をしなければならない。

 

そう言えば「書くことは世界を狭くする行為である」って最近読んだ本に書いてあったな。

ホントにそのとおりだな、と思う。

 

www.amazon.co.jp