2021 「今年の抱負」とは

そういえば、「今年の抱負」みたいなものを考えるのをすっかり忘れていた。
今年の抱負を立ててどうするのだろう、とも思うし、多分三日も経てば忘れてしまうだろうし、2020年の抱負も全く覚えちゃいないけど(そもそもあったかどうかもあやしい)、それでも新しい年を暮らしていくための指針を考えることは決してムダにはならないはずだ。仮にムダであっても構わないしな。

昨年、何を考えていたっけ?
神社に詣った時にお祈りすることはここ数年はずっと変わっていない。
「今年もよろしく頼むよ」ってことくらいだ。「まかせたよ」と。
神仏を信じるかどうかは別にして、人知を超えた何か大きなものに自身の運命を委ねることは多分、精神衛生上有効なのだろう。だいぶお気楽になると思う。
そして、それは「努力をしない」ということとは全く別の話である。

スーフィーイスラーム神秘主義)の格言にこういうものがある。

「神を信頼しろ。だが、ラクダはつないでおけ」

自分でやれることはいちおう全部やるのである。
その上で起こった結果に対しては一喜一憂しないで、思い煩うこともしない。結果がどうであろうと責任は神にあるのだから、それはもうまかせきって放っておけばいい話で、まかせたのに責任を果たさないのは神の怠慢だ。
ここ数年はそんなふうに神仏に祈っている。

では「やれること」の範囲で「今年の抱負」というものを決めていけば良いのだろう。

「伝えるための手間や工夫を惜しまない」

これにしよう。今思いついた。
誠意なり、謝意なり、いくら自分の気持ちが多大であっても相手に伝わらなければ何の意味もない。
その言葉や態度がどれほど形式的であれ、上っ面だけであっても、それによって相手に気持ちが伝わるのであればそっちの方が良いだろう。伝えるタイミングや相手のコンディションなんかも重要だ。
「これは自分の表現じゃない」だの「自分はこうじゃない」だのは、その相手にとってはどうでも良いことだし、それは単なる思い込みによるプライドでしかない。