教える

7月になりました。びっくりしますね。梅雨が長くていまいち夏って感じがしないけど、最近の夏は狂ったような猛暑で死にそうになるからそれだったら雨の方がまだマシかなぁ、なんて思っています。

最近、歳のせいなのか、人に何かを教えることが増えてきた。
と言っても仕事上のことではなくて(仕事は相変わらず休業中)大体が個人的な友人や知り合いに対してだ。相手から「教えて欲しい」と言われることもあれば、こっちから「知ってることを教えてあげたい」と思うこともある。あと、そんなに具体的なことじゃなくても単なる話相手や相談相手になることもある。
多分、これまで他人に興味のなかった僕が少しでも積極的に他人に関わろうとする、ここ数年の方針から生まれた出来事なのだろう。喜ばしいことだ。
それで、「教える」ということについて考えたことを記す。

一番思ったことは、「教える」ということは学ぶことでもある、ということ。
順を追って説明すると、まず、その物事についてよくわかっていないと教えられない。当たり前だ。
当たり前なんだけど、このこと自体が案外自覚できてない。自分ではわかってるつもりのことを機嫌よく話しているうちに、細かい部分部分に話が及ぶにつれて「あれ?そもそもこれってどういう意味だっけ?」と、ふと我に還り「あ、俺全然わかってないな」と思うことがよくある。だけど相手にとってはそもそも知らない話なので、特にツッコまれることもなく、全体としては滞りなく話が着地する。
(こう書いたけど、実際の僕はわかってないことに気づくと「あ、俺これわかんない」と正直に告白することが多い。別にお金を戴いて先生をしているわけじゃないから、なんなら相手に「これってどういうことかなぁ」と尋ねたりもする)
とにかく、教えてるうちに自分の知識の不完全さに気づく、という利点(?)がある。

次に、似たような話ではあるけど、自分では気づかない視点、知らない視点から質問が飛んでくることもしばしばある。それに対して答えようとすると、自分が普段全然考えてないことなので、イチから考えて話すことになって、すると普段考えていない、想像の外の答えが出てきたりして、こういうことはすごく新鮮である。

このように、「教える」ということは一方的に与える行為だと思われがちだけど、案外に相手から戴くものが多くある。というかそっちの方が多い。

僕はこれまで上から目線で人にものを教える、ということがなんだか嫌だったこともあり、あとめんどくさいから、あまりしないようにしてきたんだけど、ああ、なんてことだ。たくさんのものを得る機会を自ら失っていたのか。人生の半ばで気づけて良かった。

これからは老師になったようなフリをして、どんどん人にものを教えていこうと思っています。弟子求ム。