心が閉じこめられている

新型コロナウィルスの影響で仕事が4月いっぱいまでほぼ休業となってしまって早一月余りが経った。
初めのうちこそ「仕事行かなくてもいい!これを機に部屋片付けたりやりたいことやってのんびり暮らそう」と楽しい気分だったのが3月下旬ごろから雲行きが怪しくなってきて、いつしか心が晴れなくなってきた。
表面上はそれなりに軽やかに暮らしている。部屋の片付けは随分はかどったし、散歩して日光浴しながら本を読んで、新しく買ったご飯土鍋でご飯を炊き、午後はギターを弾いたり歌ったりして、夕方ごろになると軽くジョギングをして、帰ってきてナッツをつまんでビールを飲みながら映画を観て、と理想に近い生活を営んでいる。

それでも、

それでも、どうしても無意識下では漠然とした不安とストレスと苛立ちが首をもたげて、思っていた以上のダメージを受けていたみたいだ。春だというのに。せっかく今年は花粉症も軽かったというのに。

目に見えない疫病が、悪意どころか何の意思も持たないわずか0.0001mmのタンパク質が人々を不安と苛立ちと疑心暗鬼に陥れて、世の中を不寛容さと閉塞感とで満たしてしまった。

これほどまでに自分がどうしようもなく無力なのだと痛感させられたことは過去に2回あった。
3.11(東日本大震災)のとき。2.8(私立恵比寿中学松野莉奈さんの急逝)のとき。
自分も含め世の中の人々が大きな混乱の渦中にあるときは距離をおいてそっとしておくのが良い、ということを僕は学んだ。
この時期、前向きな言葉も、後ろ向きな言葉も、怒りの言葉も、寄り添う言葉も、何も聞きたくなくなった。溢れるばかりのたくさんの情報を自分の中で消化できれば良いのだけど、喪失したもの、欠落したものに向き合うそのペースは人によってそれぞれ違うものだ。有益な意見や正しい意見も中にはあるんだろうけど、僕にはまだそれらを消化する力がない。
SNSには何も書く気がしない(見ていると情報の多さにうんざりするからほんの少し流し読みをして終わり)。Twitterは遊び半分にやってたから心に余裕がないと何も書けない。
疫病に対する無力感、政治と行政への絶望感、社会の人々の不寛容さへの怒り、何よりも自身の力のなさ。不安で苛立ったままの状態で言えることなんて何もないじゃないか。
あえて何も発信する必要はない。今自分にできることをしよう、と前向きになれる人はできることをすると良い。できない人は無理に何かしなくて良いし、僕も何もしない。繰り返しになるけど、混乱の渦中にあるときは何もしないことが有用なこともあるだろう、と思う。

ただまあ、この文章を書けている時点で少しは回復しています。できる時期が来たら僕も何か心を開放できるような前向きなことを少しはやってみようと思っています。

チャイムの思い出

学校のチャイム(キンコンカンコン)がどういう仕組みで鳴っているのか、自然公園のベンチで本を読んでいる時に不意に鳴り響いたチャイムを聴いて思い出していた。学校のそれとはだいぶ違ったメロディを聴いているうちに、すっかり忘れていた中学生時代の記憶が徐々に鮮明になってくる。あのとき僕が鳴らしたチャイムはこれよりももっとデタラメなメロディでメチャクチャなリズムのチャイムだった。

中学の一年生の頃、一学期の委員会を決める時にみんな面倒な仕事をやりたくなかったのか、誰一人手を上げず先生が困っていた。僕はさっさと終わらせたかったから、なんとなくやってもいいなと思っていた放送委員に立候補した(その後は皆手を上げ始めた)。
放送委員の仕事。あまり記憶がないんだけどなんとか思い出してみると、昼休みや業間の放送をやっていたんだと思うんだけど、何を放送していたのか、どうやって機材を使っていたのか、全く思い出せない。
覚えているのは上級生、つまり二年生か三年生の女子の先輩と一緒にやっていたこと。それからその先輩がいつも漫画本を放送室に持ち込んで読んでいたことだけだ(『おまたかおる』という今考えてもひどいタイトルの漫画だった)。でも記憶がないということはきっと簡単な放送で機材の操作も簡易なものだったんだろう。放送委員の仕事はつつがなくこなしていた、と思う。

ある日、放送委員の仕事をやっている最中、学校のチャイムが鳴ったその時に僕はそれを発見してしまった。チャイムが鳴っているその間、放送室の片隅にある金属ボックスが怪しげに、唸るような機械音を発していることを。
壁面に設置された金属ボックスを確認してみるとガラス窓のようなものが付いている。そこから中の様子を伺ってみると機械仕掛けの何かが忙しそうに動いていた。好奇心を盛大にそそられて、気がつけば僕は金属ボックスの扉を開けてしまっていた。
そこには小さな鉄筋のようなものが4つ貼り付けられていて、それを小さなハンマーが叩いていた。ハンマーはゼンマイ仕掛けの機械が動かしているようだ。小さなハンマーが小さな鉄琴を叩くその音をアンプで増幅させて学校中に鳴らしていたのだ。


「チャイムってこんなアナログな仕組みで機械が演奏していたのか!」

と驚き、同時に学校の誰もが知らない秘密を知ったような気持ちになって興奮したことを覚えている。
そして、多分、同時にもう手が出ていたと思う。考えるより先に手が出てしまう性質だった。
僕の手がハンマーを触ったり、動かしてみたり、引っ張ってみたり、弾いてみたりするやいなや、それは小さな鉄琴に触れてキンコンカンコンを奏でた。
いや、正確にはそれはキンコンカンコンではなかった。まあ4つしか音がないから音階は同じなんだけど、順番がデタラメだったのでチグハグな、コンキンカンキン、コンコンキン、カンコンキンなど珍妙なチャイムが鳴った。アンプで増幅されて学校中に鳴り響いた。
僕は今よりもずっとアホだったので、予想外に大きな音が鳴って驚きながらも、しばらくの間遊んでいたら先生方が放送室に駆け込んできた。多分こってりと叱られたと思う。あんまり覚えていないけど。

このようにして僕は度々しょうもない騒動を引きおこしながら義務教育の日々を送っていた、と思う。というのも何度も書いたけどあまり記憶がないのだ。

だけど書きながら、中学のときは「毎日楽しいな」と思っていたことを思い出していた。

人の記憶は思い出すたびに改ざんされ捏造されている、と何かの本で読んだ。
このチャイムの思い出も、楽しかった思い出も、きっと事実とは違う部分がたくさんあるんだろうけど、それらを確かめる術もない。

ファッションについて

服装のことが昔からよくわからなかった。

だいたい中高生の頃になると皆オシャレを意識し始める。僕もつられて友達と一緒に服や靴を買いに行ったりしたものだけど、実際のところ「なんだかよくわからん」と思いながら買ってきた服をなんとなく着ていた。

ファッションのセンスとしては中高生の頃はグランジっぽいのが格好いいと思っていたし、大学生の頃は奥田民生の音楽が好きだったこともあってアメカジっぽい格好をしていたように思う。ちょっと前にノームコアが流行った頃には無印良品の服を買ったりしていた。そう思うと時代の潮流を少しは感じていたのかもしれない。
しかしそうは言ってもトータルコーディネイトでそういう格好をしていたわけではなくて、アイテムの買い方も着こなし方もよくわかってなかったからだいぶトンチンカンな格好をしていた。ジョジョが好きだったので無駄にたくさんジップがついた服を買って「スティッキーフィンガーズ!」と叫んでみたり、ミスタが着ているようなピタッとした服を探し回ったこともある(後でわかったことだがそれらは皆パリコレに出されているようなハイブランドで僕が手に入れられるような代物ではなかった)。そしてだんだん自分の格好がどうでも良くなってきていつしかファッションに興味を失っていった。

前置きが長くなったけど僕がファッションのことをよく考えるようになったのはここ2,3年のことだ。
音楽を始めてステージ立つようになってから自分の格好がちょっとみすぼらしくてだらしないということに気がついて(というか観に来てくれた人に言われた)、せめて見てくれる人に不快さを感じて欲しくないな、と思ったことがきっかけだった。あと音楽やってる人はオシャレな人が結構多くてなんだかそれだけで音楽も良いんじゃないか、と思い込ませられる。ステージにおいて見た目っていうのはとても大事だった。

街に出かけるたびに気になった洋服屋や古着屋に入るようになって、オシャレな人に話をよく聞くようになった。自分なりにファッションのことを研究して、自分の肌の色をよく見せる服の色があること、アイテム自体のかっこよさと自分が着て似合うことは全く別であること、男受け、女受けは違うということ、微妙なデザインの差でシルエットに大きな違いが出てくること、ファッションのジャンル、TPOがあること、などを学んでいった。
そうしているうちに「結局のところファッションは他人に見られるためにある」という非常に重要なことにようやく気がついたのだった。

オシャレを始めた頃にミュージシャンの友達のオバタケンさんと話をしていて、昔はファッションに興味がなかった、というようなことを言ったらオバタさんに「それって外見じゃなくて中身を見てくれ!って思ってたということですか?」って聞かれて「うーん…そういうわけでもなかったんだよな…」とちょっと考えてしまった。

またある時は同じくミュージシャン友達の仁=ジンさんに「最近オシャレをするようになった」と話したら「周りの人の見る目変わった?」と聞かれて「いや、周りの人のことはよくわからないですけど、僕が他人を見る目が変わりました」と答えた。
自分がファッションのことを考えるようになった結果、道ゆく他人がどんな格好をしているかよく見るようになっていたのだった。すると「ああ、あの人はああいうセンスでこういう趣味の人なんだな」なんて色々と他人のことがわかるようになってきた。

当時、お二人との会話を総合してすごく合点がいったことを覚えている。
それは「以前の僕はそもそも他人に全然興味がなかったんだ」ということ。
「外見じゃなくて中身を見てくれ!」とも思っていなかった。他人を人格のある人として認識していないのだから。人と人とも思ってなかったから平気でトンチンカンな格好をしていられた。僕の世界に他人はいなかったのである。
ああ、このことに気がついて本当に良かった。あのまま放っておいたら僕は自分一人で完結する世界にずっと生き続けるところだった。

結局のところファッションは他人に見られるためにある。
自分の格好が相対する人に対してどういう印象を与えるのか、僕は他人にどういう人間に見られたいのか、それは言い換えるなら他人とどういう関係性を結ぶのかということ。話す言葉や仕草、歌うことなんかと本質的には何ら変わりのないことだった。

石を投げる

河原や海などで遠くに向かって思いっきり石を投げる。子供の頃には当たり前のようにしていたそんな遊びを大人になってからはほとんどしなくなった。都市に出てきて河原や海みたいな自然が近所にないから、っていうのも理由の一つなのかもしれないけど、まあ普通の大人はだんだんとそういう遊びをしなくなる。

また年始の頃の話になるけど、今年は和歌山県熊野速玉神社に参拝しに行った。この神社は初詣の時期はたいそう人気ですごい人出になるので、臨時の駐車場を近くを流れている熊野川の河川敷に設ける。
その時に親戚の子供たちと川に石投げをして遊んだ。

その子たちとは前から夏休みに古座川に泳ぎに行ったときなどに同じように水切りや遠投をして遊んでいて、当たり前だけどこれまで石の遠投で負けたことはなかった。
しかし子供の成長は早いもので、すでに中学生になって野球部に入っていた長男の投げた石は僕の投げた距離をやすやすと超えていったのだった。
おかしい。こんなハズはない。去年腕の骨を折ったし、ちょっとセーブして投げてたか…と心を切り替えて助走をつけて大きく振りかぶり、川の向こう岸を狙って全力で石を投げた。
が、ダメ…!

全然お話にならないレベルで長男の投げた距離には遠く及ばなかった。がっかりした。
あとやっぱり投げたら肘が痛くて骨折が全然完治してないことがわかってがっかりした。
さらには3、4回全力投球しただけで腕の筋肉が痛くなった上に、息が上がってヘトヘトになったのもがっかりした。
筋繊維がぶちぶちとちぎれるのがわかる(僕は筋肉を酷使するとものの数分で筋肉痛になる)。ゲロ吐きそうなくらい疲れた僕は石の河川敷に座り込んで、ああ全力投球なんて久しくやってなかったなぁ…と思った。

また最近友達の子供と公園で鬼ごっこしてた時もジャッキー・チェンの映画をよく観ていた影響でアスレチックを利用した飛んだり跳ねたり座ったりする香港アクションをやりながら鬼をやってみたんだけど(あとで友達の母親に「どう?ちゃんとジャッキーみたいになってた?」と聞いたら「猿みたいだった」と言われた)1分も経たないうちに力を使い果たして老人のような様相でヨボヨボとベンチに倒れ込んだ。

昨今は有酸素運動がとても流行っていて、かくいう僕もたまに走ったり泳いだりロードバイクに乗ったりするわけだけど、瞬発系のトレーニング(無酸素運動)はほぼやっていない。瞬発系の運動不足によって子供の遊びのような全力で動き回る運動ができなくなるのは嫌だなぁ、と思った。

そんな僕の運動上の悩みを反映しているのかいないのか、最近のトレーニングのトレンドとして有酸素運動無酸素運動を組み合わせたサーキットトレーニングが推奨されているみたいです。だけど僕はトレーニングなど絶対やりたくない!

だから、できるだけ子供のような全力の遊びをやる機会をつくりたい。「運動は生活の中でやる」というのが自分のモットーです。
さらにはジャッキー・チェンの身体運動を研究、実践する「香港アクション研究会」を立ち上げたい。会員求む。

風呂の日

2月6日は風呂の日らしい。知らなかった。
僕が今住んでる部屋には風呂がない。風呂付きのアパートを借りられないほど貧乏である、というわけではなくて(貧乏だが)必要がないからわざわざそういう物件を探した。職場がスイミングスクールで1日に7,8回はシャワーを浴びているからその辺の人よりは清潔だと思う。
だけど、たまにはゆったりと湯船に浸かりたいから週に2,3回は近所の銭湯に通っている。

元々僕は特に銭湯好き、というわけではなかった。
というより、ものすごいド田舎に育ったので周りに銭湯などなかったのだ。十数年前に東京、荒川区に引っ越して来て「こんなに銭湯があるの!?」とかなり驚いた(今は多分当時の3分の1以下に減ってはきているけど、それでもたくさんある)。黒くすすけた煙突が高く伸びてるから土地勘のない当時の僕でも簡単に見つけられた。建物に入ると真ん中に番台があって、男湯女湯に分かれるという昔ながらの銭湯がそこかしこにあった。
そこには江戸っ子のおじいちゃんたちが日常的に通っていて漫画や映画で見た東京の下町、って感じがしてとても物珍しかったからか、当時でも時々は通っていたように思う。

いつから銭湯が僕にとって「なくてはならないもの」になったのか。
それは件の職場、スイミングスクールが大きく関係している。
とにかく体が冷えるのだ。いくら温水プールとは言っても1日に3〜4時間、多いときは5時間もプールに入っていたら寒い(しかも僕は昔から冷え性で寒いのが超ニガテだ)。絶対健康に良くない。
だから同じくらいの時間は無理にしても、結構な長風呂をして帳尻を合わせる必要がある。

ある日、職場から帰る途中にたまたま見つけた銭湯へ行ってみたら冷え切った体が芯から温められて生き返った。仕事帰りの疲れた頭もリラックスできて広い湯船に浸かりながら長いことボーッとしていた。おまけにサウナまである。至福の時間だった。銭湯を出た後もずっとポカポカしていて、家風呂に比べたら疲れの取れ具合が全然違った。
以来、銭湯は好きとかそういうレベルではなくなって、生活必需品、文字通り生きるために通うようになった。

通うようになってわかったのは銭湯が近所の人たちのコミュニケーションの場としても機能していることだった。
顔見知りになった方や、プールに来ているおじいちゃん、子供たちや親御さんが、お風呂場で会うとみんなリラックスしていて和やかに話をしている。そんなやりとりがとても新鮮で、僕のような単身者とってこういう地域のコミュニティってなかなか得難いものだよなぁ、なくなって欲しくないなぁ、といつも思うのだ。

書くことについて

昨年の年末に『魂の文章術』という本を読んだ。ずいぶん昔の、アメリカ人の女性が書いた本で当時はベストセラーになったらしい。

本にあった「世界中で一番くだらないことを書いてもいい」という言葉に「ああ、そうだよね…」と初心にかえったような気持ちになって、書くことに対してとても勇気づけられた。
真っ白なノートに何かを書こうとする時、それはもうただ書きたいから書くだけだ。誰かに見せるつもりもないし、有意義なこと、立派なことを書かなくても良い。散文になろうが、メモになろうが、買い物リストだろうが、誰かの悪口だろうが、恥ずかしい恋文だろうが、何を書いたって良い。
それは本来、何かを表現するときの初期衝動であり根源的な欲求のはずなんだ。
誰かに「こんな表現おかしいじゃないか」「くだらないじゃないか」などと言われる必要もない(むしろうるさいのは自分の中にいる批評家と編集者だ)。
おかげで随分と楽にノートに向き合えるようになった。

「世界中で一番くだらないことを書いてもいい」

文章を書いたり、曲を作って歌うとき、僕はこの言葉を呪文のように唱え続けている。

だけど、作ったものを人に見せて評価されたり、いいねされたり、承認されたり、あまつさえお金をもらおう、なんて考えると途端に話がややこしくなってくる。

それは創作の本質とは少し違う、他者とどう関わるのか、というテーマの話だ。
多分だけれど、この時代、多くの人が評価と承認を求めている。僕だって当然、評価されたいし認められたい。

だけどそれだけじゃないと思う。

創作したものを他者に、世の中にぶつけようとするときっていうのは、そんなに安易な感情だけじゃないはずだ。
存在の確認であったり、価値観の戦いであったり、驚きであったり、ひらめきであったり、ぶつかったことで生まれるものが楽しみであったりと、まあ色々と言葉にはできるかもしれないけれど、そこにはもっとすごいものが潜んでいるんじゃないだろうか、と僕は密かに思っている。

生活

居心地の良い部屋、というものに、僕は未だかつて住んだことがない。
引越しは十回以上はやっているんだけど、引越しをした当初「ここを理想のオシャレな部屋にするぞ!」と意気込むものの、片付けに追われる数週間のみ多少がんばってあれやこれやを買ったり捨てたりして、とりあえず「まあ、住めるか」というところでひと段落した後は何年もそのまま、ということが往々にしてある。部屋の隅に置かれたダンボールが次の引越しまでそのまま置いてある、ということもよくある。

考えてみれば実家を出た当初は母が買ってくれた羽毛布団と旅行用のカバン一つだけを持って行った(正確には母が通販で買った布団はそのまま大学の学生寮に送られた)。
18歳の僕はなんにも持っていなかった。
今にして思えばそれはとても贅沢なことのようにも思える。両手が空いている状態っていうのは、これから何でもかんでも掴めそうな気がする。
寮を出て一人暮らしを始めた時も荷物は全然なかった。
だけど生活に必要なものを買ったり友人にもらったりしているうちにだんだんを「自分の持ち物」が増えていき、いつしか僕は「モノ持ち」になっていった。

引っ越しを繰り返すたび、モノの多さを実感してしんどくなっていくんだけど、その当時の僕はアホだったから「捨てる」という考えが全く浮かんでこなかった。それどころかまだまだモノを増やそうとしていた。モノを自分の財産だと思っていたのだ。

そんな意識のまま十数年が経ち、さすがの僕も学習したのか、一番最近の引っ越しでは結構な量の不用品を捨てた。
自分の中では相当な量のモノを捨てたつもりだったんだけど、今現在の部屋を眺めてみるとまだまだいらんもの置いてるなぁ、と感じる。

というより「自分の持ち物」は日々増えていくものなんだろう。
暮らしていく中で本だって買うし服だって買う、今度はそれらをしまうための収納道具を買う。
放っておいたら増えていくばかり、散らかっていくばかりで、これはもう自然現象のようなものだ。
そんなふうに足し算的に日々増えていくのなら、どこかで引き算をしないと帳尻が合わないではないか。
ところが、ほぼ自動的にモノが増えていくのに対して、引き算(具体的には「片付け」と「捨て」)は確かな意思を持ってやらないとなかなか実行されないのが困難なところだ。

ここ何年かはそんなことばかりを考えていたんだけど、僕にとって「片付け」と「捨て」というのはかなり苦手分野だったみたいで、この自然に増大していく魔物にはあまり勝てたことがない。いつも負け戦だ。

しかし、だからと言って戦わないでいるわけにはいかない。放っておいたら家は今以上にヒドい有り様になってしまう。
だから週3回のゴミの日に、レジ袋を片付け、ゴミを捨て、ビンカンを捨て、切れた電球を捨て、古くなったシーツを捨て、もう着なくなった古着を捨て、本を整理して、ギリギリのところで、人がなんとか住めるくらいの秩序が保たれている。

そんなわけで僕は昨今はやりのミニマリストとは程遠く、負け戦を続けながらモノに囲まれて生活をしている。